2015年11月23日 (月)

忘れようとして(22)~フランス同時多発テロ。

平原綾香さんのコンサートの話題は、まだ途中なのですが、

事態が事態だけに、少しだけこの件について、

忘れようとする前に、書き並べてみようかな、と。

 

フランスの皆さまの悲しみは、私たちの悲しみでもあります。

心より哀悼の意を捧げます。

 

§思い出したこと~その1

私見では、「浄土の真宗」が他の宗派を見る場合、

相当、寛容な立場にあると思います。

私がそう考える理由は、「歎異抄」の第二条にあります。

以下に部分引用いたしますが、長いので、

お急ぎの方は、読み飛ばしてください。

~~~~~~~~~~

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、

よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、

また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、

さらに後悔すべからず候ふ。

そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、

念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ

後悔も候はめ。

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

(中略)

詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。

このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、

面々の御はからひなりと云々。

~~~~~~~~~「歎異抄」 第二条(部分)

要するに、聖人の述懐は、

自分は、地獄以外に行き着く場所が無いのである

ですから、念仏を捨てようとも、信じようとも、皆さんの勝手ですよ

ということなのです。(意訳:筆者)

 

これまた、私見ですが、比するに、

例えば日蓮宗は、むしろ、“寛容”とは逆の性向があるようです。

その流れを汲む、といわれるのが、

現在の、政権与党=公明党の支持母体である創価学会ですが、

今回はそれには触れません。

 

 

アラブ・パレスチナ問題、また、中東紛争について語られるとき、

たびたび、“やおよろずの神”といった言葉に象徴される、

「日本人の宗教的寛容性」ということが語られますので、

今日もそんなことを思い出しました。

 

ただ、注意すべきことは、

今回のIS(=自称“イスラム国”)、また、アルカイダにおいてもですが、

彼らは、イスラム教の教義とは一切関係のない集団ですから、

このように「日本人の宗教的寛容性」などという概念を持ち出すことは、

ときに、「場違い」な議論に陥ることがあります。

 

§思い出したこと~その2

後藤健二氏、湯川遥菜氏のお二人がISによって殺害された事件は、

今なお記憶に新しいことでしょうが、

当時、日米政府がそれぞれ、声明を発表しました。

~~~~~~~~~~

A:「後藤さんは報道を通じ、勇気を持ってシリアの人々の窮状を世界に

伝えようとした。

われわれの心は後藤さんの家族や彼を愛する人々とともにある」

 

B:「テロに屈しない。-----テロリストたちを決して許さない」

~~~~~~~~~~

AB、いったい、どちらが安倍総理で、

どちらがオバマ大統領の言葉だったでしょうか。……

 

答えは、Aがオバマ大統領、

Bが、わが日本政府を代表する安倍首相の声明でした。

 

 

安倍総理が“安保法案”を強行採決したからには、

日本は、ますます米国と共同軍事作戦を行うようになることでしょう。

我が国は、もう、かってのように、

「中東地域では、欧米諸国と違い、中立である」

とは言える立場ではなくなりました。

日本国内でも、今回のフランスのようなテロの起きる可能性は、

ますます増大していると言えます。

 

§思い出したこと~その3

~~~(引用開始)「亀井一成さん死去…国内初のチンパンジー人工飼育成功」

 神戸市立王子動物園で飼育員を務め、国内で初めてチンパンジーの人工飼育に

成功したことで知られる、亀井一成さんが死去したことが14日、分かった。

80歳だった。葬儀は親族で済ませた。

 1963年以降、未熟児や育児放棄されたチンパンジー計4頭を自宅に連れ帰り、

妻とともに育てた。うち1頭の「チェリー」は現在も王子動物園で飼育されている。

90年に動物園を退職した後も講演活動を続けた。    (引用終了)

~~~~~~(2010914日 スポーツ報知より)

 

“ン十年前”のことで、あやふやな記憶なのですが、

亀井一成氏の、忘れられない言葉があります。

大意は、たしか、以下のようなものだったと思いますが。

 

▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

「サーカスで、動物が後ろ足で、立ってみせることがよくありますね。

実は、四足歩行の動物が、後ろ足で立つということは、大変なことで、

例えると、人間でいえば、私たちが“逆立ち”するのと同じくらいの負担が、

身体に掛かることになります。……

(動物園の)動物にとっての幸福、といいますと、子供を作って、

そうして家族と一緒に、健康に暮らしていくということではないですか」

▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

このお話を聞いて以来、私のサーカスを見る目が変わりましたが、

亀井氏のこの“動物の幸福”についてのお話、

私たち人間にも当てはまるのではないでしょうか。

 

 

冒頭、知ったかぶりで「歎異抄」なんぞを引用したりしてしまいましたが、

では、いま現在、何をどのようにするべきなのか、

正直、アタマは混乱するばかりなのです。

 

「テロに屈しない。-----テロリストたちを決して許さない」

それはそうでしょうが、空爆だけで、解決するとも思えません。

識者の意見を聞いていても、“隔靴掻痒”で、

具体的に何を言いたいのか、よくわかりませんでした。

 

 

卑近な言葉で恐縮です、

無関心が差別を生み、差別が貧困を生むといわれます。

「格差社会」というフレーズは、現在の日本でもよく見聞き致しますが、

イスラム社会の経済格差は、人をテロリズムに走らせるほど、

極限状態にあると考えます。

それならば、まずもって、市民ひとりひとりの「生活援助」が第一ではないか。

……

 

 

身体も、アタマも疲労のピークに至り、とりとめのない雑記になってしまいました、

この辺で、ストップしますが、シリア情勢も、ロシアが主導権を握っているようで、

それも、“なんだかなあ…”という暗い気分の昨今ではあります。

 

と、まあ、やっとの思いでここまで書きましたが、ひどいニュースがまたも…。

思わず、“亡霊の復活かよ!”と心の中で叫びました。

例によりまして、詳細はこちらで、ということで

JIROさんのサイトをご覧願います。

「高村氏 テロ対策で「共謀罪」新設など法整備を」←これこそ猛反対しなければいけません。: JIROの独断的日記ココログ版

特定秘密保護法、戦争法案に続き、今回のテロを利用して「共謀罪」の新設…、

国民の権利を無視した、こんなひどい内閣は、いまだかって存在しませんでした。

即刻、退陣させねばなりません。

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2013年3月24日 (日)

続々・クラシカル・クロスオーバー~結び:親鸞の和讃を音楽に乗せて。

(前回からのつづきです)

なぜ、親鸞は、

「念仏者は、弥勒菩薩と等しい」とか、

「念仏者は、如来の光に包まれている」

と、おっしゃっているのでしょうか。

 

 

実は、親鸞のお言葉に、「念仏は智慧なり」とあります。

浄土の真宗とご縁の少ない方には、

念仏(=南無阿弥陀仏)は、「亡くなられた人のため」とか、

「気分を落ち着かせるための“おまじない”である」とか、

はては、

「年寄りの“口グセ”だ」のように考えておられるかもしれませんが、

それは、間違いです。

なぜならば、「念仏は知恵にほかならない」なのですから―

 

 

再度、過去の拙ブログから引用いたしますと、

~~~~~~~~

阿弥陀仏とは「光」であり、「智恵」であり、また「真理」そのものであります。

更に、具体的に言い換えるならば、阿弥陀仏は、「太陽」である、といえましょう。

親鸞の言葉を借りますと、

 

数知れない世界に、なにものにもさえぎられない智恵の光をお放ちになるから、尽十方無碍光仏と申し上げる。この仏は光ばかりのお姿で、色も形もおありにならない。

                     (「唯心鈔文意」現代語訳:石田瑞麿氏)

~~~~~~~~~~~~「歎異抄」は親鸞の思想ではない。<その2>

 

 

ですから、小生の結論を再掲いたしますと、

~~~~~~~~

親鸞の思想とは、「死んでから」のことではなく、

「今の人生を生き抜く知恵」を、「絶対他力」に見いだしたものである、といえます。

~~~~~~~~「歎異抄」は親鸞の思想ではない。<その3>

親鸞の哲学についての詳細は、

「『歎異抄』は親鸞の思想ではない。」シリーズを、ご覧ください、

ということで、本日はお茶を濁しますが、ところで―

 

 

念仏は知恵である」という親鸞の言葉で思い出したのですが…

いま、「クラシカル・クロスオーバー」の先頭グループを担っておられるお一人に、

平原綾香さんがおられますね。

彼女が、(たしか、3年前の)コンサートのMCで、こんなことをおっしゃっていました。

曰く、「クラシック音楽には、生きるためのヒントがあります」と。

 

私自身、このような発想、というか、

このような感受性でクラシックを聴いたことはありませんでしたので、

非常な衝撃を受けたことを、よく覚えております。

 

平原綾香さんのクラシカル・クロスオーバーを、

“有名な過去の作品に歌詞をつけただけ”という風な評価も耳にしましたが、

「生きるためのヒントがある」と彼女に言わせしめるだけの、

身を削るにも似た努力・研究を、平原さんは、なさっておられるのですね。

ま、「てんけい・イチおし」の平原綾香さんにつきましては、またいずれ、ということで…

 

 

おっと、平田聖子先生に戻らなくては―

演奏を鑑賞いたしますと、これまた、東洋と西洋の「クロスオーバー」、

という感もありますね。先に挙げた

染香人のその身には - YouTube

真の知識にあうことは - YouTube等の他に、

amazonにも、CD紹介サイトがあります。

 

商品の詳細

http://www.amazon.co.jp/s?ie=UTF8&search-alias=classical&keywords=%E5%B9%B3%E7%94%B0%E8%81%96%E5%AD%90

 

さて、親鸞の和讃に音楽を付ける試みは、過去にもあったように思いますし、

そういえば、TVのワイド・ショーで、

ロックや、ジャズに乗せてお経や、法話をなさっているご住職の映像等も

記憶しております。

とかくの批判もありましょうが、

これも、時代の要請ではないだろうか、と私は考えております。 (おしまい)

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2013年3月23日 (土)

続々・クラシカル・クロスオーバー~~親鸞の和讃を音楽に乗せて。

(前回からのつづきです)

 

「歎異抄」の第二条に、親鸞の言葉として、以下のような文章があります。

 

~~~~~~~~

 

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。

 

仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。

 

善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。

 

法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。

 

~~~~~~~~「歎異抄」第二条より一部を引用

 

 

 

「教行信証」は、上記の親鸞の言葉が示すとおり、

 

浄土宗の正統性を、教理学的に証明したものですが、

 

民衆―農民・狩漁民・及び、当時仏教では救済外であった女性たち―

 

への布教にあたり、より分かり易くするために、和讃を作られたのです。

 

 

 

ですから、和讃それ自体が、ある意味、「クロスオーバー」と言えると思いますが、

 

更に、この和讃に、曲を付けて、

 

「歌曲」にされたのが平田聖子氏。

 

平田氏は、もともとは、現代音楽の作曲家であったと、お聞きしております。

 

クラシック音楽の多くは、その “ルーツ”はキリスト教に求められますが、

 

それに匹敵する、東洋の「仏教音楽」を確立しよう、という

 

平田氏の意欲作です。

 

You Tubeがありますので、どうぞ。

 

染香人のそ身には - YouTube

 

指揮をしておられるのが、平田先生です。

 

演奏されている和讃は、「浄土和讃」から。

 

 

 

~~~~~~~~

 

染香人のその身には 

 

香気あるがごとくなり 

 

これをすなはち なづけてぞ 

 

香光荘厳と まうすなる

 

~~~~~~~~

 

 

 

この演奏は、以下のような歌詞でなされていますね。

 

……………………

 

「せんこうにんのその身には こうけあるがごとくなり(繰り返し) 

 

  (南無阿弥陀 南無阿弥陀)

 

 こうけあるがごとくなり

 

これをすなわち なづけてぞ 

 

こうこうしょうごんと もうすなる(繰り返し)」

 

  ……………………

 

 

 

 

 

ネットではいろいろな解説が見られますが、

 

「てんけい」的に、それを試みるならば、

 

 

 

“身に付いた―、つまり、からだ全体から立ちこめてくる香りと同じように、

 

念仏の道を進む者は、如来の光に包まれていることに全く等しい“ 

 

 

 

とでも、申しておきましょうか。

 

 

 

「香光荘厳」などと申しますと、

 

宗教独特の神秘主義である、とか、

 

なにやら、当今はやりの“スピリチュアル”めいた話で、

 

敬遠される方もおられましょうが、そんなことではありません。

 

200710月に引用した和讃がこちらです。

 

 

 

 

 

~~~~~~~~

 

五十六億七千万

 

弥勒菩薩は としをへん

 

まことの信心 うる人は

 

このたび さとりを ひらくべし

 

 

 

 

 

念仏往生の願により

 

等正覚に いたる人

 

すなわち弥勒に おなじして

 

大般涅槃を さとるべし 

 

~~~~~~~~

 

 

 

なぜ、親鸞は、

 

上記の和讃のように、「念仏者は、弥勒菩薩と等しい」とか、

 

平田氏が作曲された歌曲の中では、「念仏者は、如来の光に包まれている」

 

と、おっしゃっているのでしょうか。

 

「てんけい」のくだらぬ“法話”がもう少し続きます、スミマセン。

                                         (つづく)

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2013年3月20日 (水)

続・クラシカル・クロスオーバー~親鸞の和讃を音楽に乗せて。

「論語読みの論語知らず」と申しますが、

「厚顔無恥」をものともせず、“さっぱりわやくちゃ”の精神にのっとり、

今回のテーマは、拙ブログでは、再度、

親鸞聖人に関するもの、ということにあいなりました。

 

 

2007年、当ブログでこんなことを書いたことがあります。

~~~~~~~~~~~~~~

「クラシカル・クロスオーバー」に戻りますが、

最近、私は「絵本」を、連想しています。

みんな子供の頃は、まず、「絵本」を手にしましたよね。

成長につれて、「絵」と「文字」の地位が逆転して、

「挿絵」付きの本になり、

やがて、「文字」だけの書物へと変わっていくのですが、

ある意味、「クラシカル・クロスオーバー」って、「絵本」みたいなもの…

なんて、考えたりしているこの頃です。

~~~~~~~~~~~~~~

「ゴッドファーザー」(本田美奈子.さんへ捧ぐ): SAPPARI WAYA

 

さて、親鸞の書いた書物、といいますと、多くの方は、

 

 

「『歎異抄』!」

 

 

と思われるかもしれませんが、

以前にも書いたとおり、親鸞は、「歎異抄」を著しておりません。

「歎異抄」は、親鸞の弟子の唯円が書いたものです

私たちは、このことに十分、留意しておく必要がありますし、

また、「歎異抄」についての著作を書くならば、

上記のことを、はっきりと記しておくべきであると私は考えます。

「歎異抄」は親鸞の思想ではない。SAPPARI WAYA<その1>

 

実は、親鸞の主著は、「教行信証」と呼ばれているもので、

6巻にも及ぶ大著、その正確な名称は、

「顕浄土真実教行証文類」

(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)といいます。

親鸞は、大無量寿経などの諸経典から、縦横無尽に引用しつつ、

(原本の漢文も、大胆な“読み替え”を、意図的に行っていると、

聞いたことがあります)

「弥陀の本願こそが、人々を救う道である」ことを、この書物の中で、証しています。

ですから、この「教行信証」は、

現代的に言えば、学会発表用の「学術論文」で、

当然のことながら、庶民には“チンプンカンプン”であるわけですね。

 

な・の・で―

親鸞は、「和讃」というものを創作しました。

和讃、とは念仏の教えを、「七五調」の言葉に乗せて、

民衆にも分かり易いように、噛み砕いて解説したものです。

たとえ、文字が読めなくても、リズムに乗せて唱えているうちに、

浄土宗の要諦を、身に付けていただこう、という趣旨ですね。

 

過去の記事にて、親鸞作の和讃をふたつ、ご紹介したことがありましたが、

「歎異抄」は、親鸞の思想はない。: SAPPARI WAYA<その3>

ちなみに、私が若いころ、数多い親鸞の和讃の中でも、特に強い印象を受けたのが、

下記の和讃でありました。

有名なものですから、浄土真宗とご縁のある方には、ご存じかと思われます。

 

如来大悲の恩徳は

  身を粉にしても報ずべし

 師主知識の恩徳も

   骨をくだきても謝すべし

 

なぜ、心に残ったかと申しますと、

「骨をくだく」という、きわめて激しい表現も、もちろんですが、

その最後の4行目ですが、俳句でいうところの、

「破調」になっているのですね。(音が「七・五調」でなく、「八・四」です)

このことが、特別に印象的な効果を、この和讃に付加しています。

当然、親鸞は、わざと「破調」のままに残しておいたのでしょう。

 

内容は、特に説明の要もないことと思いますが、

「如来大悲の恩徳」とは、阿弥陀如来の本願のこと。

“我が名を唱える(=「念仏」)人々を、すべて救いましょう”というのが本願です。

それでは、「師主知識」とは何でしょうか。

その弥陀の本願に、自分を導いてくださった方を指します。

親鸞の場合は、言うまでもなく法然上人。

 

ときに―

後世、法然は「浄土宗」、親鸞は「浄土真宗」、というように、

別々の宗派のように言われていますが、

親鸞は、上の和讃にありますように、終生、法然を師と仰いでいましたから、

自分が別の一派を打ち立てた、というような考えは毛頭ありませんでした。

ですから、「浄土宗」、「浄土真宗」云々は、

彼の死後のこと、いわば、“分派抗争”のたぐいのことになります。

 

 

親鸞の歌曲の話題まで、至りませんでした、

すみませんが、もう1回、お付き合いください。   (つづく)

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2010年6月23日 (水)

「クリスマスの約束2009」(4)~絶望の今…。

(前回からのつづきです)

本田美奈子.さんの遺された言葉、

「私は歌になりたい」

とは、いったい具体的には、どういう意味であったのか。

前の記事で、例によって、私の偏見と妄想により、

本田さんは、「神」、また「宇宙」との同化を望まれたのではないだろうか。

という、仮説を述べた。

さて、長くなり過ぎた本稿も、最終回。

やや、長文ではあるが、五木寛之氏の著書の引用からスタートする。

(引用開始)~~~~~~~

 音楽家であったクーディーたちも、やはりユダヤ人だったため、アウシュビッツに送られます。(中略)

いつ殺されるかわからない日々を送っていたある日、彼は、全収容所のなかから、プロのミュージシャンや楽器が演奏できる人だけを抜擢して作られたアウシュビッツ収容所の音楽隊のひとりに選ばれます。(中略)

 朝は起床の音楽を、体操のときには体操の音楽を、そして労働のときにはみんなの士気を鼓舞する音楽を。

 そして、土曜と日曜には―ここが大事なんですが―ドイツ人高官や非常に高い地位の将校、収容所の偉い士官とかその家族のための週末のコンサートをやるんですね。

 モーツァルトとかバッハとかいろんな音楽を演奏するんですが、昼間はガス室で何万人という人を焼き尽くし、ブルドーザーでその死体を埋めている人たちが、土曜の夜になると、コンサート・ホールに集まって、アウシュビッツのユダヤ人たちの演奏する音楽に本当に感動して、涙を流して聴き入るのです。(中略)

 この本に序文を書くよう依頼されたフランスの文学者ジュルジュ・デュアメルは、(中略)こういった内容の序文を書きました。

 (中略)これまで自分は、音楽とは、美しい魂の持ち主だけを感動させるものだと信じていた。そして自分を支えてきた。だが、血に染まった手を、ポケットに隠して感動できるモーツァルト、そんなものがあるんだったら、もう自分はクラシック音楽など信じない―。                                   (以下略)

~~~~~~(五木寛之著「夜明けを待ちながら」:東京書籍より 引用筆者)

 

さて―

あまりにも、酷い現実を思い知らされますね。

 ・・・・・・・・・

「動物が好きな人に悪い人はいない」とか、同様に、

「音楽を愛する人に悪い人はいない」

などともいう言葉も、皆さん、聞かれたことと思うが、

残念ながら、―

やはり現実は、そんなに単純なものではなかったのである。

というよりも、人間の「業」の深さを思い知らされる。

これは、もちろん、私自身も含めてのことなのだが。

 

ひとときの間、とはいえ、

ナチスの将校たちが、モーツァルトを聴いて涙を流したことも、真実である。

この瞬間、彼らといえども、「神」との対話が有ったことには違いないのである。

そうでないと、この事実の説明がつかない。

彼らもまた、「神性志向」が皆無ではなかった…。

ただ、いつも私が言うように、

                                                         

 

現実世界とは、非条理なものに違いない、のである。

 

小田和正さんが、このアウシュビッツの話をご存じかどうかは、分からないが、

音楽家であるならば、

「この“一瞬の真実”に賭けてみたい―」

という気になるのも必然であろう。

出来るかぎり大勢の歌手の参加を募ったのは、

この“一瞬の真実”、“一瞬の奇跡”を、より強固で確実なものにするため、

(そう、失敗は許されない)

そして、一層のパワーアップを企図したのであろう。

1970年代から現在に至る、21組もの歌手が、様々なスタイルの歌を歌われた。

そして、他の歌手は、そのアーチストが歌っている間は、

バックコーラスとして、その歌を支え続けた。

私の知る限りでは、これほどまでに壮大な、歌のメドレー(2250)なんて、

聞いたことがない。

 

地球上には、多種多様な価値観や文化が存在する。

それを互いに許容していくことの重要性。

殺戮・戦争の無い世界を築き上げるには、このようなことが求められる。

キミの音楽は、ボクのとは違う。でも、認めるよ

「クリスマスの約束2009」をご覧になった方は、

あのメドレーを通じて、改めてそのようなことを確信されたに違いあるまい。

ただ、これは今に判ったことではないはずだ。

多くの人類は、それを「経験」として、また「知識」として身につけている。

だが、現実はどうだろう…

「音楽」は、やはり、立ちはだかる厳しい現実の前には無力なのであろうか。

 

この葛藤が、TV局のスタッフの問いに対し、

小田和正さんが沈黙せざるを得なかったもうひとつの理由であろう、

と、私は推測する。

 

21世紀、ここまで錯綜と混迷を極めた現代、

本当に「音楽」は有効か、または否か。

哲学者:ニーチェ(→フリードリヒ・ニーチェ - Wikipedia)は、既に

 

「神は死んだ」

 

と喝破しているのだが………。

 ・・・・・・・・・・・・・・

 

ところで、

“では、オマエは、このイベントを鑑賞して、「神」に出会えたのかね?”

という御質問が飛んできそうなのですが、また長くなりそうですし、

 

「言葉にするとこぼれてしまうから何も言いません」

 

と、今回はひとまず、小田和正さんの言葉をお借りすることにして…。

 

そして最後に、このような素晴らしい企画を立案・実行された小田さんはじめ、スタッフの皆様、また、参加されたアーチストの方々に、御礼を申し上げるとともに、このたびの、放送文化基金賞の御受賞にあたり、心より、お祝いを申し上げます。

                                      (この稿、了)

 

(付記)

さて、もしも、本田美奈子.さんが、他のアーチスト同様、小田和正さんより、

この「クリスマスの約束2009」に参加の要請を受けておられたら…

 

スケジュールが空いてさえいれば、快諾されたことでしょう。

私は、そのように想像します。ところで、何の曲を歌われるのか…。

“美奈子クラシック”は、彼女がついに辿り着いた、

彼女にとっての、至高の音楽的境地ですが、

この日ばかりは、あの、きらめくようなソプラノは“封印”して、

1986年のマリリン」を歌われたのではないか。…そんな気がしています。

 

しかも―とびきりの笑顔で…。

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 ご参考:

ルネ・クーディ他:著「死の国の音楽隊―アウシュヴィッツの奇蹟」

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2010年6月16日 (水)

「クリスマスの約束2009」(3)~「神と対話する」ということ。

(前回からのつづきです)

この、「クリスマスの約束2009」での、

小田和正さんの目的とは、「神との対話」にあったのではないか

 

もちろん、繰り返して言うが、これは、あくまで個人的な感想であり、

「妄想」であり、また「仮説」である。

ただ、

「仮説」も「仮説」として認識されるなら、それは「仮説」そのままで「真理」である。

などとも。及び、

 

前回の記事の最後の「注:」に記したように、「神」という単語の定義が、頗る曖昧なままでの進行もどうかと思うのだが、“市井人”の私には、ここらが、精一杯のところではあり、何卒、御容赦を。

~~~~~~~

この小田和正さんの「クリスマスの約束2009」を鑑賞させていただいて、

いろいろと想いを巡らせたことであったが、

さて……

 

本田美奈子.さんのファンの間では、よく知られた1枚の写真がある。

写真家:原田京子氏の撮られたあの写真。

開演直前のステージ上で、宙空へ向って両手を広げ差し伸べ、

祈りを捧げておられる瞬間の本田さんの、やや斜め後方からのショット。

 

「ステージには“音楽の神様”がいらっしゃるから」

とは、本田さんのお言葉であるが、

 

我れと、我が魂を、天上の神に捧げるかのようなお姿を見たとき、

私は、“こと、歌うことに関しては、『鬼』かもしれない”と、思ってしまった。

「鬼才:本田美奈子.」なる言葉を使用するようになったのは、その頃からである。

私が、初めてこの写真を目にしたとき、

それほど、衝撃的な印象を受けたことをはっきりと覚えている。

 

本田さんは、また、

「私は歌になりたい」

と、おっしゃっていたそうだが、

私には、直ちにはその言葉の真意がはかりかねていたが、

その本田さんの写真と考え合わせると、

具象的な意味が、おぼろげながら見えてきた。

つまり…

 

 「宇宙は音楽でできている」

 

などというフレーズもあるが、

本田さんは、日々のコンサートにおいて、

自ら歌うことにより、「音楽の神」の降臨を願い、また、

「神」、また「宇宙」との同化を目指されたのではないだろうか。

 

かねてより、私は、

「本田さんの歌唱には、特異なものがある」

という感想を書いてきた。

「歌う技術」-堀江眞美さん。: SAPPARI WAYA

本田さんは、単に無意識下ではなく、

 

この『神性志向』を、つとめて意識的に目指されていた

 

このことが、本田さんと他の歌手と峻別できる点である、とはいえないか。

(もちろん、「神性志向」が、歌手にとっての必須条件、などとは言わない) 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ただ残念ながら、手放しで、

“音楽礼賛”ばかりを続けるわけにもいかないのが、現実である。

                                 (この項、さらにつづく)

御参考:御存じない方のために~「奇跡の写真」とは…

         ↓

懐かしいアナロ盤♪:◆本田美奈子

(再注:本稿で用いている「神」という言葉についいてですが、

もちろん、一神教的な「神」を指すものではありません。

より、普遍的・始原的なイメージでとらえていただければ幸いです。)

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2010年6月13日 (日)

「クリスマスの約束2009」(2)~小田和正さんがやろうとしたこととは…

(前回のつづきです)

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

~~~~~~~「歎異抄」より引用

親鸞聖人のお言葉として、唯円が「歎異抄」に書き残した文である。

「五劫」とは何か。「劫」とは時間の単位。

一説に「一劫」とは、百年に一度、天女が舞い降りてきて、

一辺が40里もある巨大な岩石を、その羽衣で撫でて帰ってゆく。

それを続けて、その40里四方の岩が

なくなってしまうまでの時間が「一劫」とされる。なんとも、気の遠くなる話ではある。

 

この言葉を発せられたとき、確かに、

親鸞と阿弥陀仏は、“直接向き合って”対話されていたのだろう。

この時間・空間を超えた、親鸞と阿弥陀仏の対峙を考えると、

もはや、親鸞の思想は、「宗教」を超越し、

「哲学」にまで達したといっても、過言ではない。

~~~~~~~~~~

さて、お約束の前回記事への「傍論」、ないし“暴論”である。

私なりの推測では、

小田和正さんの“実験”の目的とは、「神との対話」だったのでは、と思う。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

このライブは、“○○○チャリティー”とか、

“×××を救うキャンペーン”ではない。

(もちろん、そのような趣旨のものを私は否定しないが)

やることは、ただひとつ、

小田さんの言葉を借りるなら、前回紹介した、

 

「それぞれが、自分の歌を、“歌いたおす”」(さらに、全員でそれを支え合う)―

 

このことに尽きるのである。

 

本田美奈子.さんのご提唱で「Live For Life基金」が設立された。

認定特定非営利活動法人リブ・フォー・ライフ美奈子基金

その「Live For Life」には、『生きるために生きる』という邦訳が充てられているが、

それに倣うならば、“歌いたおす”とは、

『歌うために歌う』ということに他ならない。

 

「浄土の真宗」においては、『専修念仏』といい、

“ひたすらに念仏せよ”と説かれる。

(ちなみに、禅宗では、『只管打座』。“ただ、座禅を組め”と。)

徹底的に純化された行為は、

精神活動も、“神の領域”へと導いていく。

 

さて、小田和正さんが、今回のイベントにより、実現しようとしたこととは、

アーチストも、観衆も、「神との対話」が体験出来るのではないか、ということ。

これは、私の“妄想”であろうか。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

本田美奈子.さんが天界に還られて以降、

「ヒトは、なぜ、歌うのか」ということを、

私なりに、考えていたのだが、

 

歌の起源は、おそらく、

神へ捧げる、「祝詞(のりと)」のようなものがそのルーツであると考える。

狩りの成功、また豊作の願いなどを、神に託した“祈り”が、

歌、或いは、音楽へと発展していった。

だから、元来、音楽とは、「神」(或いは、「宇宙」)との交信をはかる、

神聖なものであり、(原始)宗教的儀礼にその起源を見出されるであろう。

 

みなさんも、歌や音楽を、コンサート、またCDで聴いていて、

思わず、胸が熱くなったという経験は、幾度となくあったはずである。

この場合、音楽のジャンルは問わなくともよい。

音楽に貴賎なし。~“アニソン”の「千年女王」、堀江美都子さん。: SAPPARI WAYA

その瞬間、私たちと「神」との対話が実現し、日常性の中に埋没していた、

「神性」(仏教的には「仏性【ぶっしょう】」という)が目覚めた、というべきである。

私は、仮に、これを「神性志向」と呼ぶことにする。

この「神性志向」は、

「神」に対する畏怖、あるいは崇敬、と言い換えられようが、

おそらくは全ての人間に、

いわば、“DNAの一部”の如きものとして存在するものと考える。

 

より具体的に言うならば、

喜びを分かち合い、幸福感を共有すること、

ここに、「ヒトは、なぜ、歌うのか」

(あるいは、「本田美奈子.さんがなぜ、歌いつづけたのか」)

という問いに対しての、

ひとつの答えが見い出されはしないか。

                                    (この項、またつづく)

(注:本稿で用いている「神」という言葉についいてですが、

もちろん、一神教的な「神」を指すものではありません。

より、普遍的・始原的なイメージでとらえていただければ幸いです。)

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2009年11月 9日 (月)

忘れようとして(3)「これが将棋」。~大内延介九段

(前回よりつづいて、大内延介先生についてです)

後日………、

大内九段は、囲碁の林海峰九段との対談において、

次のような発言を残されています。

~~~~~

「僕が8二歩と打った時に、中原さんがすぐ同飛車と

取ってくれていれば、ああいう事件は起きなかった。

それが手洗いに立って帰ってくる何分かの間に、神の啓示というか、

僕の中に悪魔が宿ったっていうか、そうとしか考えられないですよね。

(中略)それを体験した時に、人間は運命付けられているのじゃないか

っていうような、運命みたいなのを感じますね。」

~~~(毎日コミュニケーション刊:「勝負の世界」(1987年)より 引用筆者

 

大内九段は、「運命」という言葉を使われていますが、

なぜ、このような間違った手を指されたのでしょうか。

もちろん、錯覚はプロ・アマ問わず、人間ならば避けられないものには

違いありません。

あるいは…、想像するに…

大内九段は▲4五歩以下の変化を、

相手の王様の詰み(=王様が、どこにも逃げられない状態のことです)

に至るまで、深く読み進めるあまり、

“既に、▲4五歩―△同銀―▲4四歩打の”必然の手順“を指してしまっている”

そんな錯覚に陥ったのではないでしょうか。

これは、私の想像ですが、この種の錯覚は、プロ棋士には時々ある、とも聞きます。

あまりにも深く、かつ緻密に、

(中盤の変化の多い局面では、数百手も読み進めることがある、と聞きます)

指し手を読むために生じることなのですね。

ですから、数十手~何百手も読まない(読めない)アマチュアには、

このようなことは、まず、起き得ないことであり、

その心理状態も、われわれには、なかなか想像し難い面がある。…

これも、私の仮説ですが。

~~~~~

この勝負の結末は、「引き分け」という結果に終わりました。

その後、中原名人の王様が絶体絶命の窮地を脱出、

“逃げ出し”に成功したわけです。

そして、次に行われた指し直しの勝負で、大内九段は敗退、

中原名人は、辛くも名人位の防衛を果たしました。

あの▲7一角を打つ前の局面は、

先手がほとんど勝っています。

野球に例えると、

「10対零、9回ツーアウト、ランナーなし」……

いや、10点差かどうかは、別にして、ともかく圧倒的な大差なのです。

野球ならば、逆転、もしくは同点などということは、あり得ない状況です。

しかし、将棋は別です。

僅か、一手のことで、形勢はひっくり返ってしまいます。

また、終盤戦において、“どう指しても勝ち”と思える局面が時々ありますが、

勝利につながる手は、実は、その内の一手だけ、という場合もよくあるのです。

そして、“早く勝ちたい”という気持と、“安全に勝ちたい”という

二つの相反する心理が、交錯する結果、

焦り・迷いが生じ、逆転負けを喫する…

これは、プロ・アマ問わず、将棋においては、

誰もが、幾度となく経験したはずです。

 

それにしても、なんと、将棋とは、

誘惑と、陥穽に満ちたゲームなのでしょうか。

どんなに有利、優勢な局面であっても、

つねに、“断崖絶壁”の状態にいるのだ、ということを、

自覚せねばなりません。

「勝利」へとたどり着く道は、いつも、細い道が1本残されているのみ…

ここまで書くと、「浄土の真宗」における、「念仏道」と、

なぜか、私には、重なって見えてくるような気がします。

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_513f.html

いや、またも“ヘボ将棋”の身で、くだらぬ“寄り道”をしてしまいました。…

 

ところで、いかに、御訪問者も少なく、かように辺鄙なブログとはいえ、

当の大内九段にしてみれば、“二度と見たくもない” 将棋を

(御本人にすれば、たぶん、そうだろうと想像するのです)、

取り上げてしまったわけですが、もちろん、申し上げるまでもなく、

八段、九段といえば、プロの最高峰、A級棋士であり、

我々からすれば、神様に等しい存在です。

非難とか、そういった中傷めいた意図は、毛頭、ございません。

 

むしろ、

どんなに勝勢の局面であっても、一手間違えば、

あッというまに、敗北へと転落していく、

 

これが、将棋なのだ」 

 

ということを、あらためて、世に広く知らしめた、

これこそが、この名人戦における、最大の“眼目”であったような気がします。

 

昔、ある人に、

「囲碁と将棋って、どちらが面白いのですか?」

なんて、訊かれたことがあります。そこで、私は、

「私は囲碁については、よく、知りませんし、

今は将棋の方を、好んではいますが、比べるならば、

囲碁は宇宙、将棋は人生』、という風に例えられると思っています」

と、答えたことがあります。

 

ならば、私流に申せば、

これが、将棋なのであり、これが、人生なのだ」ということになるでしょう。

さて、不世出の大棋士、大山康晴第十五世名人の棋風は、かっては、

「表芸は矢倉、裏芸は振り飛車」(後年は、逆になりましたが)

と言われていました。

大内九段が、最近どのような将棋を指されていらっしゃるのか、

不勉強につき、存じませんが、

ぜひ、「裏芸の居飛車」でもって、いや、振り飛車でもいいのですが、

(氏の名著、「5七銀左戦法」は私の”バイブル”でした)

5七銀左戦法 @将棋 棋書ミシュラン!

今一度、棋界において”怒涛のひと暴れ”をしていただきたい。

それが、かの時代を知る、“あるオールド・ファン”の願いなのです。

                    (長文乱文妄言多謝、この稿了)

------------

付記:

前回ご紹介しましたURLをもう一度、ご紹介しておきます。

当該図面と解説がアップされています。

”語り継ぐために・・・

及び、“タイトル通り” 忘れようとして。

「穴熊囲い」のURLを貼るのを、ウッカリしておりました(苦笑)。

穴熊囲い - Wikipedia いい命名ですネ。

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2009年7月 9日 (木)

平原綾香さんの今春のライブが、7/11に放送されます。(つづき)

【収録】2009年5月9日(土)・JCBホール

BSサタデーライブ 「スーパーライブ 平原綾香 ~Path of Independence」 

 711日(土) 午後1130100 

 

(前回よりのつづきです。4月に行ってきた平原綾香さんのライブの

“駆け足レポ”です)

 

さて、「Jupiter」。

押しも押されもせぬ、平原さんの代表曲。

私は、前回のレポで、

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/in_1159.html

~~~~~~~

“平原さん、あとさき考えずに、この歌をレコーディングしたのではないか。

『とにかく、この歌に挑戦したい』、と思ったのかも”

 

 

技術よりも、まず、人の心に届くことのほうが大事

 

 

そんなことを、私は、想像してしまいました。

~~~~~~~

などと記しました。

彼女の「Jupiter」は、吉元由美氏の作詞、ということになっていますが、

平原さんご自身の意見が濃く反映されている、ということを、

聞いたことがあります。

「私のデビュー曲は、この歌しかない」

きっと、そんな思いだったのかもしれません。

 

当然のことながら、平原さんの「Jupiter」は、日々、進化しています。

当日の「Jupiter」は、CDバージョンよりも、

はるかに、イイです。聴いてみてください。

またライブならではの、映像効果も、とても効果的で、みどころですね。

 

 

Path of Independence

アルバムタイトル曲、かつ、本ツアーのメイン・テーマ。

後方のスクリーンに、この歌の歌詞、

 

"I have nothing left to fear"

 

-----「おそれることなど、なにも無いよ」

というほどの意でしょうか----

 

このフレーズが、大きく映し出されます。

いい言葉です。

 

 

蛇足ながら、「浄土の真宗」の立場から申しますと、

念仏者は無碍の一道なり。」(歎異抄:第七条)

と、ほぼ、同意かと存じます。

以上のように、とっても、力強いメッセージの込められた歌なのですが、

歌自体は、実に、穏やかで、ゆったりとした美しいメロディーを有します。

この曲も、“聴きどころ”だと思います。

 

 

さて、聴きどころ、見どころは、他にもありますが、

そこいらは、オンエアで、ということで。

 

電波には乗らないかも、ですが、

平原さんって、結構、トークが面白いのですね。

別に、ギャグとか、ダジャレなどがあるわけでもないのですが、

持って生まれた“性分”ってゆーのかな、

これ、実に羨ましいよねー(笑)。

 

今回はライブの終りに、ツアーグッズの紹介が、延々とあったのですが、

“ひいき目”があるにしても、さほど“嫌味”には聞こえないのです(苦笑)。

といっても、私、何も買いませんでしたが(おいおい)。

写真がいっぱい(だそうです)の、ツアーパンフレットを掲げて、

「水着の写真はのってないですから、安心して」などとおっしゃってましたが、

むむ…あれば買ってたかも!(←アホかーっ!)

 

終演後、7-8名の方がステージまでプレゼントを届けに駆け寄ったのですが、

(なんと、驚くべきことに、当日、舞台前の係員イナイ、のです!)

その紙袋をかかえて、ソデに帰っていく様子が、なんとも…

癒されます(笑)!

 

 

さて、TV放映とはいえ、今回はBSですから、ご覧になれない方も、いらっしゃるとは思います。

そのような方は、是非、今後発売されるであろうDVDをご購入してください!(爆)

 

(これでライブ当日の「罪ほろぼし」になったに違いない)  (おしまい)

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平原綾香さんの楽曲のダウンロードサイト。

mora win[モーラ ウィン] : 平原綾香の楽曲を試聴・ダウンロード

当ブログ名物(?)、「罪ほろぼしシリーズ」。

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_d714.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_3ea4.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_e098.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/in_54a5.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/tv-1975.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/new-8803.html

(なんだかなあ、平原さんって、登場回数No1かも?)

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2009年5月27日 (水)

平原綾香さんのNEWシングルは「新世界」です。

本来なら、平原綾香さんの今年のライブレポが、先に来るハズでした。

ハイ、書きかけていました、2-3行だけ(爆)。

それが、「新型インフル」のおかげで、公私ともに大混乱。

「わやくちゃ」は、今に始まったことではないので、アキラメて進めます。

 

 

5/27に平原さんのNEWシングル「新世界」が発売される、しかも、カップリングが、

“あの”「カッチーニのアヴェ・マリア」である

 

 

ということを知って、ずいぶんと、この日を待っていました。

 

実は、5/24の日曜日、ちょこっと買い物をしに出かけた折、

近所のスーパーで、この歌を耳にしました。

なじみのあるメロディーに、あの特徴ある声ですから、すぐ分かりました。

 

“純クラシック音楽ファン”の方なら、どういう感想を持たれるのか、

ちょっと、心配もあるような、実に大胆なアレンジが施されていますね。

 

これには、さぞ、“先輩”川井郁子さんも、オドロキかもしれない(笑)。

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_0b78.html

出来るならば、一度は、ドヴォルザークの原曲のほうも、

お聴きいただきたいと、切に願うものです。

 

さて、「新世界」「AVE MARIA」ともに、既に書いたように、

予想を見事に覆すような、あまりに斬新な編曲、

ことに、「AVE MARIA」は、JAZZの雰囲気を漂わせるような、

スキャットまで、使われていて、まさに、“平原‘sワールド”全開の趣があります。

 

2曲とも、平原さんご自身の作詞です。

以前に、

 

 

この年齢で、これだけの世界観を持っている、ということはすごい。

と、書いたことがありますが、

 

このCDでも、やはり、同じことを考えてしまいました。

 

デビュー曲「ジュピター」も、

どこか、宗教的な想いが込められているように思えましたが、

この「新世界」についても、そのように感じられてなりません。

 

 

~~~~~

「新世界」(部分)平原綾香さん:作詞

 

くるしいこころも そのままでいい

かなしいおもいも そのままでいい

それは 心 なおすことなく 手放すこと

いつだって 自分は 生まれ変われる

~~~~~

 

 

くるしいこころも かなしいおもいも そのままでいい」

とは、どういうことか。

これは、人間の煩悩の存在を肯定しつつ、

「悟り」への道を拓いた「浄土の真宗」そのものではないか。

 

 

親鸞聖人の言葉を引用いたします。

~~~~~

煩悩にまとわれきった愚かな人々が、仏の光のお心に照らされて、

信心を得て歓喜し、信心を得て歓喜する所から、

浄土に生まれるものの中に数えられますが、その信心というのは智恵であり、

この智恵は、仏の慈悲の光明に救いとられるから得られるところの

智恵でありますし、仏の光明も智恵でありますから

だから信心を得て歓喜する人は、如来と等しい、というのであります。

~~~~~(「末燈抄」より 現代語訳:石田瑞磨氏)

(春秋社刊「親鸞とその妻の手紙」より引用)

       

 

 

心 なおすことなく 手放す」

これも、「自らのさかしらな分別を捨てる」という、

「絶対他力」の教えに、ほかならないのではないでしょうか。

~~~~~

他力においては、義の捨てられていることが義であると、

法然上人は仰せになったことであります。

~~~~~(引用 同上)

 

 

さて、くだらぬ小生のハナシなんぞはどうでもよく、

要するに、

もしも、機会があれば、この「てんけいイチ押し」の、

“平原‘sワールド”に触れていただければいいナーと思うわけです。

 

 

以前にも書きましたが、

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-b16e.html

新世界」は、本田美奈子.さんのラスト・シングル曲であり、

また、本田さんの歌声で「AVE MARIA」を初めて耳にしたときの、

驚きと感動は、今も、はっきりと心に残っています。

 

さて、平原さんの「AVE MARIA」。

1行、平原さん作詞の印象的なフレーズがあるのです。

 

 

~~~~~

AVE MARIA」(部分)平原綾香さん:作詞

死ぬまで音楽と共に 

生きるために

どうか わたしに力を

~~~~~

 

平原さん、また彼女のファンの皆様方は、どう思われるか分かりませんが、

これは、そのままそっくり、

 

 

本田美奈子.さんの想いに等しいのではなかろうか、

 

 

そんな風に考えつつ、このCDを聴いています。

新世界 新世界

アーティスト:平原綾香
販売元:ドリーミュージック
発売日:2009/05/27
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

--------

最後に、

平原さん、今、全曲クラシックのアルバムを構想中です。

リクエストも、受け付けておられますので、

こちらからぜひ、どうぞ。

Ayaka Hirahara Official website ~平原綾香に唄って欲しい クラシック作品大募集!!~ 

原曲の「新世界」、いっぱいCDは有ります。

今、「人気」(!)といえば、やはり西本智実さんかな、というところで、

今回は「おしまい」です。

ドヴォルザーク:交響曲第9番 Music ドヴォルザーク:交響曲第9番

アーティスト:西本智実
販売元:キングレコード
発売日:2008/06/04
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

 

 

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