2009年11月 9日 (月)

忘れようとして(3)「これが将棋」。~大内延介九段

(前回よりつづいて、大内延介先生についてです)

後日………、

大内九段は、囲碁の林海峰九段との対談において、

次のような発言を残されています。

~~~~~

「僕が8二歩と打った時に、中原さんがすぐ同飛車と

取ってくれていれば、ああいう事件は起きなかった。

それが手洗いに立って帰ってくる何分かの間に、神の啓示というか、

僕の中に悪魔が宿ったっていうか、そうとしか考えられないですよね。

(中略)それを体験した時に、人間は運命付けられているのじゃないか

っていうような、運命みたいなのを感じますね。」

~~~(毎日コミュニケーション刊:「勝負の世界」(1987年)より 引用筆者

 

大内九段は、「運命」という言葉を使われていますが、

なぜ、このような間違った手を指されたのでしょうか。

もちろん、錯覚はプロ・アマ問わず、人間ならば避けられないものには

違いありません。

あるいは…、想像するに…

大内九段は▲4五歩以下の変化を、

相手の王様の詰み(=王様が、どこにも逃げられない状態のことです)

に至るまで、深く読み進めるあまり、

“既に、▲4五歩―△同銀―▲4四歩打の”必然の手順“を指してしまっている”

そんな錯覚に陥ったのではないでしょうか。

これは、私の想像ですが、この種の錯覚は、プロ棋士には時々ある、とも聞きます。

あまりにも深く、かつ緻密に、

(中盤の変化の多い局面では、数百手も読み進めることがある、と聞きます)

指し手を読むために生じることなのですね。

ですから、数十手~何百手も読まない(読めない)アマチュアには、

このようなことは、まず、起き得ないことであり、

その心理状態も、われわれには、なかなか想像し難い面がある。…

これも、私の仮説ですが。

~~~~~

この勝負の結末は、「引き分け」という結果に終わりました。

その後、中原名人の王様が絶体絶命の窮地を脱出、

“逃げ出し”に成功したわけです。

そして、次に行われた指し直しの勝負で、大内九段は敗退、

中原名人は、辛くも名人位の防衛を果たしました。

あの▲7一角を打つ前の局面は、

先手がほとんど勝っています。

野球に例えると、

「10対零、9回ツーアウト、ランナーなし」……

いや、10点差かどうかは、別にして、ともかく圧倒的な大差なのです。

野球ならば、逆転、もしくは同点などということは、あり得ない状況です。

しかし、将棋は別です。

僅か、一手のことで、形勢はひっくり返ってしまいます。

また、終盤戦において、“どう指しても勝ち”と思える局面が時々ありますが、

勝利につながる手は、実は、その内の一手だけ、という場合もよくあるのです。

そして、“早く勝ちたい”という気持と、“安全に勝ちたい”という

二つの相反する心理が、交錯する結果、

焦り・迷いが生じ、逆転負けを喫する…

これは、プロ・アマ問わず、将棋においては、

誰もが、幾度となく経験したはずです。

 

それにしても、なんと、将棋とは、

誘惑と、陥穽に満ちたゲームなのでしょうか。

どんなに有利、優勢な局面であっても、

つねに、“断崖絶壁”の状態にいるのだ、ということを、

自覚せねばなりません。

「勝利」へとたどり着く道は、いつも、細い道が1本残されているのみ…

ここまで書くと、「浄土の真宗」における、「念仏道」と、

なぜか、私には、重なって見えてくるような気がします。

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_513f.html

いや、またも“ヘボ将棋”の身で、くだらぬ“寄り道”をしてしまいました。…

 

ところで、いかに、御訪問者も少なく、かように辺鄙なブログとはいえ、

当の大内九段にしてみれば、“二度と見たくもない” 将棋を

(御本人にすれば、たぶん、そうだろうと想像するのです)、

取り上げてしまったわけですが、もちろん、申し上げるまでもなく、

八段、九段といえば、プロの最高峰、A級棋士であり、

我々からすれば、神様に等しい存在です。

非難とか、そういった中傷めいた意図は、毛頭、ございません。

 

むしろ、

どんなに勝勢の局面であっても、一手間違えば、

あッというまに、敗北へと転落していく、

 

これが、将棋なのだ」 

 

ということを、あらためて、世に広く知らしめた、

これこそが、この名人戦における、最大の“眼目”であったような気がします。

 

昔、ある人に、

「囲碁と将棋って、どちらが面白いのですか?」

なんて、訊かれたことがあります。そこで、私は、

「私は囲碁については、よく、知りませんし、

今は将棋の方を、好んではいますが、比べるならば、

囲碁は宇宙、将棋は人生』、という風に例えられると思っています」

と、答えたことがあります。

 

ならば、私流に申せば、

これが、将棋なのであり、これが、人生なのだ」ということになるでしょう。

さて、不世出の大棋士、大山康晴第十五世名人の棋風は、かっては、

「表芸は矢倉、裏芸は振り飛車」(後年は、逆になりましたが)

と言われていました。

大内九段が、最近どのような将棋を指されていらっしゃるのか、

不勉強につき、存じませんが、

ぜひ、「裏芸の居飛車」でもって、いや、振り飛車でもいいのですが、

(氏の名著、「5七銀左戦法」は私の”バイブル”でした)

5七銀左戦法 @将棋 棋書ミシュラン!

今一度、棋界において”怒涛のひと暴れ”をしていただきたい。

それが、かの時代を知る、“あるオールド・ファン”の願いなのです。

                    (長文乱文妄言多謝、この稿了)

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付記:

前回ご紹介しましたURLをもう一度、ご紹介しておきます。

当該図面と解説がアップされています。

”語り継ぐために・・・

及び、“タイトル通り” 忘れようとして。

「穴熊囲い」のURLを貼るのを、ウッカリしておりました(苦笑)。

穴熊囲い - Wikipedia いい命名ですネ。

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2009年7月 9日 (木)

平原綾香さんの今春のライブが、7/11に放送されます。(つづき)

【収録】2009年5月9日(土)・JCBホール

BSサタデーライブ 「スーパーライブ 平原綾香 ~Path of Independence」 

  711日(土) 午後1130100    

(前回よりのつづきです。4月に行ってきた平原綾香さんのライブの

“駆け足レポ”です)

さて、「Jupiter」。

押しも押されもせぬ、平原さんの代表曲。

私は、前回のレポで、

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/in_1159.html

~~~~~~~

“平原さん、あとさき考えずに、この歌をレコーディングしたのではないか。

『とにかく、この歌に挑戦したい』、と思ったのかも”

 

技術よりも、まず、人の心に届くことのほうが大事

 

そんなことを、私は、想像してしまいました。

~~~~~~~

などと記しました。

彼女の「Jupiter」は、吉元由美氏の作詞、ということになっていますが、

平原さんご自身の意見が濃く反映されている、ということを、

聞いたことがあります。

「私のデビュー曲は、この歌しかない」

きっと、そんな思いだったのかもしれません。

当然のことながら、平原さんの「Jupiter」は、日々、進化しています。

当日の「Jupiter」は、CDバージョンよりも、

はるかに、イイです。聴いてみてください。

またライブならではの、映像効果も、とても効果的で、みどころですね。

 

Path of Independence

アルバムタイトル曲、かつ、本ツアーのメイン・テーマ。

後方のスクリーンに、この歌の歌詞、

"I have nothing left to fear"

-----「おそれることなど、なにも無いよ」

というほどの意でしょうか----

このフレーズが、大きく映し出されます。

いい言葉です。

 

蛇足ながら、「浄土の真宗」の立場から申しますと、

念仏者は無碍の一道なり。」(歎異抄:第七条)

と、ほぼ、同意かと存じます。

以上のように、とっても、力強いメッセージの込められた歌なのですが、

歌自体は、実に、穏やかで、ゆったりとした美しいメロディーを有します。

この曲も、“聴きどころ”だと思います。

 

さて、聴きどころ、見どころは、他にもありますが、

そこいらは、オンエアで、ということで。

電波には乗らないかも、ですが、

平原さんって、結構、トークが面白いのですね。

別に、ギャグとか、ダジャレなどがあるわけでもないのですが、

持って生まれた“性分”ってゆーのかな、

これ、実に羨ましいよねー(笑)。

今回はライブの終りに、ツアーグッズの紹介が、延々とあったのですが、

“ひいき目”があるにしても、さほど“嫌味”には聞こえないのです(苦笑)。

といっても、私、何も買いませんでしたが(おいおい)。

写真がいっぱい(だそうです)の、ツアーパンフレットを掲げて、

「水着の写真はのってないですから、安心して」などとおっしゃってましたが、

むむ…あれば買ってたかも!(←アホかーっ!)

終演後、7-8名の方がステージまでプレゼントを届けに駆け寄ったのですが、

(なんと、驚くべきことに、当日、舞台前の係員イナイ、のです!)

その紙袋をかかえて、ソデに帰っていく様子が、なんとも…

癒されます(笑)!

 

さて、TV放映とはいえ、今回はBSですから、ご覧になれない方も、いらっしゃるとは思います。

そのような方は、是非、今後発売されるであろうDVDをご購入してください!(爆)

 

(これでライブ当日の「罪ほろぼし」になったに違いない)  (おしまい)

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平原綾香さんの楽曲のダウンロードサイト。

mora win[モーラ ウィン] : 平原綾香の楽曲を試聴・ダウンロード

当ブログ名物(?)、「罪ほろぼしシリーズ」。

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_d714.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_3ea4.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_e098.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/in_54a5.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/tv-1975.html

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/new-8803.html

(なんだかなあ、平原さんって、登場回数No1かも?)

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2009年5月27日 (水)

平原綾香さんのNEWシングルは「新世界」です。

本来なら、平原綾香さんの今年のライブレポが、先に来るハズでした。

ハイ、書きかけていました、2-3行だけ(爆)。

それが、「新型インフル」のおかげで、公私ともに大混乱。

「わやくちゃ」は、今に始まったことではないので、アキラメて進めます。

 

5/27に平原さんのNEWシングル「新世界」が発売される、しかも、カップリングが、

“あの”「カッチーニのアヴェ・マリア」である

 

ということを知って、ずいぶんと、この日を待っていました。

実は、5/24の日曜日、ちょこっと買い物をしに出かけた折、

近所のスーパーで、この歌を耳にしました。

なじみのあるメロディーに、あの特徴ある声ですから、すぐ分かりました。

“純クラシック音楽ファン”の方なら、どういう感想を持たれるのか、

ちょっと、心配もあるような、実に大胆なアレンジが施されていますね。

これには、さぞ、“先輩”川井郁子さんも、オドロキかもしれない(笑)。

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_0b78.html

出来るならば、一度は、ドヴォルザークの原曲のほうも、

お聴きいただきたいと、切に願うものです。

さて、「新世界」「AVE MARIA」ともに、既に書いたように、

予想を見事に覆すような、あまりに斬新な編曲、

ことに、「AVE MARIA」は、JAZZの雰囲気を漂わせるような、

スキャットまで、使われていて、まさに、“平原‘sワールド”全開の趣があります。

2曲とも、平原さんご自身の作詞です。

以前に、

 

この年齢で、これだけの世界観を持っている、ということはすごい。

と、書いたことがありますが、

このCDでも、やはり、同じことを考えてしまいました。

デビュー曲「ジュピター」も、

どこか、宗教的な想いが込められているように思えましたが、

この「新世界」についても、そのように感じられてなりません。

 

~~~~~

「新世界」(部分)平原綾香さん:作詞

くるしいこころも そのままでいい

かなしいおもいも そのままでいい

それは 心 なおすことなく 手放すこと

いつだって 自分は 生まれ変われる

~~~~~

 

くるしいこころも かなしいおもいも そのままでいい」

とは、どういうことか。

これは、人間の煩悩の存在を肯定しつつ、

「悟り」への道を拓いた「浄土の真宗」そのものではないか。

 

親鸞聖人の言葉を引用いたします。

~~~~~

煩悩にまとわれきった愚かな人々が、仏の光のお心に照らされて、

信心を得て歓喜し、信心を得て歓喜する所から、

浄土に生まれるものの中に数えられますが、その信心というのは智恵であり、

この智恵は、仏の慈悲の光明に救いとられるから得られるところの

智恵でありますし、仏の光明も智恵でありますから

だから信心を得て歓喜する人は、如来と等しい、というのであります。

~~~~~(「末燈抄」より 現代語訳:石田瑞磨氏)

(春秋社刊「親鸞とその妻の手紙」より引用)

       

 

心 なおすことなく 手放す」

これも、「自らのさかしらな分別を捨てる」という、

「絶対他力」の教えに、ほかならないのではないでしょうか。

~~~~~

他力においては、義の捨てられていることが義であると、

法然上人は仰せになったことであります。

~~~~~(引用 同上)

 

さて、くだらぬ小生のハナシなんぞはどうでもよく、

要するに、

もしも、機会があれば、この「てんけいイチ押し」の、

“平原‘sワールド”に触れていただければいいナーと思うわけです。

 

以前にも書きましたが、

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-b16e.html

新世界」は、本田美奈子.さんのラスト・シングル曲であり、

また、本田さんの歌声で「AVE MARIA」を初めて耳にしたときの、

驚きと感動は、今も、はっきりと心に残っています。

さて、平原さんの「AVE MARIA」。

1行、平原さん作詞の印象的なフレーズがあるのです。

 

~~~~~

AVE MARIA」(部分)平原綾香さん:作詞

死ぬまで音楽と共に 

生きるために

どうか わたしに力を

~~~~~

平原さん、また彼女のファンの皆様方は、どう思われるか分かりませんが、

これは、そのままそっくり、

 

本田美奈子.さんの想いに等しいのではなかろうか、

 

そんな風に考えつつ、このCDを聴いています。

新世界 新世界

アーティスト:平原綾香
販売元:ドリーミュージック
発売日:2009/05/27
Amazon.co.jpで詳細を確認する

--------

最後に、

平原さん、今、全曲クラシックのアルバムを構想中です。

リクエストも、受け付けておられますので、

こちらからぜひ、どうぞ。

Ayaka Hirahara Official website ~平原綾香に唄って欲しい クラシック作品大募集!!~ 

原曲の「新世界」、いっぱいCDは有ります。

今、「人気」(!)といえば、やはり西本智実さんかな、というところで、

今回は「おしまい」です。

ドヴォルザーク:交響曲第9番 Music ドヴォルザーク:交響曲第9番

アーティスト:西本智実
販売元:キングレコード
発売日:2008/06/04
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2009年1月 2日 (金)

もちろん、年末は「第九」・新年にはワルツなのですが。~~ 「新世界」本田美奈子.さん。

明けましておめでとうございます。

 

と、いうわけで、本年の初カキコ、これがホントの、「書初め」ってことだわ。(笑)

いつまで続くか、わからないブログだけど、ともかく、やってみんべえ。

え?だいじょうぶ、アルコールは入ってませんが、年末&正月ボケです。

ってことは、いつもより、「ボケ」に念が入ってる、ってことです。(笑)

年末・年始には、オイラ、これまで、

平原綾香さんの「スタート・ライン」、

      ↓

SAPPARI WAYA: 年末には「第九」。ですが(補足済)

また、パーシー・フェイスの「シンシアのワルツ」をオススメしてきたよね。

      ↓

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post_1439.html

ただ、今年ねえー----、社会情勢を見てると、どうだかねえ。

「ハケンギリ」なんて言葉が飛び交うのだけど、イヤな言葉だ。

うすら寒くなるよ。それじゃあ、まるで、時代劇の「辻斬り」みたいなもんじゃないですか。

「後期」高齢者---あのフレーズを思い出したよ。

日比谷公園には、失業者が250人ほど、炊き出し等の支援を受けに来られたらしい。公園のテントのキャパも、いっぱいだから、NPOは、学校等の避難施設の活用を要請してるようだけど、これは、やるべき、だよね。

オイラ、阪神淡路大震災で、一夜だけ、高校の体育館で過ごしたけど、

      ↓

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_0586.html

夏ならともかく、この冬の時期だと、とても、体がもちません。

壁にかかっていた柔道着の下、つまりズボンを敷いてね、上着を掛けて寝たわけ。

体育館だから、屋外じゃなくて、屋根も、壁もあるのだけど、ガタガタ震えて、眠れるもんですか。

それも、仰向けにならず、つまり、背中全体をつけないでね、片方の肩を下にして寝るわけ。

そう、お釈迦様状態ですよ。(苦笑)そのほうが、少しでも、体温が床から逃げるのを減らせるからね。でも、いっしょ。あの寒さでは、寝られません。

「見よう見まねで、段ボールを敷いて、新聞紙を体に巻きつけてみたが、

寒すぎて-----」という元派遣労働者の談話があったけど、わかるよねー。

施設の開放について、役所は、きっと「災害時でもないのに」とか「前例がない」とか言うのだろうけど、

麻生首相も、「100年に一度の経済危機だ」って言ってるでしょ。

なら、そのくらいの対策はやらなきゃあ。

東京、だけじゃないから。神戸でも、同様の事態が起きてます。

東神戸遊園地は、日比谷公園と同じ状態です。

きっと、全国各地もいっしょ、だろう。

いったい、どこが、「経済大国」だっつうの?

いつから、日本は、こんな情けない国になったのだろう?

 

§「新世界」。本田美奈子.さんの最後のシングル。

話を戻します、また、いずれ、この話はゆっくり、と思うのだが、

その間に、状況が進展していくのが常でして、なかなか、うまくいかない。

もっとも、「政治オンチ」のオイラには、取り上げるには難物、だけどね。(苦笑)

 

というわけで、本田美奈子.さんの「新世界」なんだけど、

本当は、別の曲を考えていた。歌謡曲の「ワルツ」ですわ。

え?先日、逝去された遠藤実先生の「星影のワルツ」だろうって?

いいえ、そんな“ストレート”は、「てんけい」は投げないよ。(笑)

今の暗いご時勢、予定していた「暗いワルツ」はやめときます。

「新世界」、といえば、昨年の川井郁子さんのライブを思い出すね。

20000円のチケットが、タダで手に入って、ホント、ラッキーだったわ。(笑)

      ↓

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_0b78.html

川井さんも、次代の地球を担う、子供たちへの「生命の賛歌」― これが、このCDの主題です、と語っておられましたが、

本田さんの「新世界」も、うーん----どうだろ----

「歌」というより、「祈り」に近い。そう、思う。

原曲は、いうまでもなくドボルザークの「交響曲第9番」。

あれあれ、クルマのTV-CM、女性指揮者の西本智実さんが出演されてるやつ、

あの曲です、もっとも、CMで流れてるのは第四楽章、本田さんのは、第二楽章だけど。

あ、これ、合ってる?まあいい、(笑)

これね、作詞は、実は、本田美奈子.さんご自身の作品です。

ま、知ってる人は知ってるけど。(笑)

この詩、いいよねー、好きです。

1番と、2番があるんだけど、2番が、意味シン、かな。

えーと、2番だけなら、いいか、(笑)書いちゃいますね。

 

「消えるこころ 持つならば

実るこころ 与えよう

そっと そっと 少しずつ

明日の 花を 咲かせよう

守りたまえ この世界

永遠(とわ)につづく 幸せを 幸せを---

 

本田さんの美しいvocal聴いてるときは、気がつかなかったけど、

文字に起こすと、このフレーズ、

「消えるこころ 持つならば 実るこころ 与えよう」

うん、考えてしまいますね。

ここから先は、本田さんの作意をはずれた(?)「てんけい」流の私論です、

「雑談」の極致です、が、本人的には意外とマジメ、です(笑)

 

「消えるこころ」を、「たよりない、危うげな心」と解するならば、

「迷い」・「怒り」・「嫉妬」に満ちた、人間の煩悩と、とらえることも可かもしれない。

然るに、「煩悩即菩提」、つまり、「煩悩」があればこそ、「悟り」を開くことができる、

これは、大乗仏教の「イロハ」である。

よって、「実るこころ」とは、「菩提心」(=菩薩の境地)ではないか。

浄土の真宗の宗祖、親鸞聖人ならば、

「消えるこころ 持つなれば  実るこころ 与えよう」

と、強引に言い換えたかもしれない。(笑)

さて、「浄土の真宗」といえば、思い出されるのが、

本田さんのお言葉、

「私は、太陽になりたい」である。

拙ブログ、「『歎異抄』は親鸞の思想ではない」から引用すると、

      ↓

http://bluesky1010.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_6837.html

 

---------

「阿弥陀仏(=阿弥陀如来)」とは何か、というと、その別名を、

「尽十方無碍光如来」(じんじゅっぽうむげこうにょらい)といいます。

“その放つ光は、さえぎられることなく、十方世界を、ことごとく照らす”という意です。

ですから、このように表現することができます。

阿弥陀仏とは「光」であり、「智恵」であり、また「真理」そのものであります。

更に、具体的に言い換えるならば、阿弥陀仏は、「太陽」である、といえましょう。

親鸞の言葉を借りますと、

~~~~~~~~~~~~

「数知れない世界に、なにものにもさえぎられない智恵の光をお放ちになるから、尽十方無碍光仏と申し上げる。この仏は光ばかりのお姿で、色も形もおありにならない。」

            (「唯心鈔文意」現代語訳:石田瑞麿氏)

~~~~~~~~~~~~

だから、本田さんの、そのお話を聞いたとき、

「そうか、本田さんは阿弥陀仏になりたい、とおっしゃってらしたのか」

と、強い感銘を受けたのを憶えている。

「消えるこころ」とは、「無常観」、ないし「万物は流転する」との仏教の宇宙観にもとづくもの、

であるなら、「生あるうちに、悟りを開けよ」というのが、

阿弥陀仏の「大慈悲心」である。

ここでのポイントは、「与えよう」という言葉。

「絶対他力」の浄土の真宗においては、「念仏」も、「信心」も、「悟り」も、

人間の所為にはあらず、

阿弥陀仏より、差し向けられたものに他ならない。

つまり、本田美奈子.さんの「新世界」は、

浄土の真宗」の摂理を、よく表している、と申せます。

本田さんのスゴいところは、このようなことが、「アタマ」ではなく、

おそらく、全人格的なところから、滲み出てきたものだと思う。

それでないと、こんな詩、書けません。

ご闘病中にも、たくさんの草稿を残されたか、あるいは、

新しい詩作のイメージがいくつも、おありになったのではないだろうか。

かえすがえすも、残念です。

----------------

さて、皆様方には、「てんけい」のくだらぬ“法話”にダマサれることなく、

本田さんの「新世界」をご鑑賞していただきたく思います。(笑)

オススメのCDはこれ、「本田美奈子.クラシカル・ベスト~天に響く歌」です。

      ↓

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000NOISDY/nifty05-nif1689-22/ref=nosim

前にも、御紹介しましたが、このCDにはDVDが付いていまして、

そのDVDでは、この「新世界」、それに「つばさ」「AVE MARIA」の3曲が、

映像付きで鑑賞できます。

ことに、「新世界」は、我が国最高のオーケストラの一つ、

NHK交響楽団に、「ソリスト:本田美奈子.」として招かれての共演時の映像です。

是非とも、聴いて、また、観ていただきたい。

私的には、児童、お子様にも鑑賞願いたいですね。

きっと、得るものがあろうかと。

本田美奈子.クラシカル・ベスト~天に響く歌~(DVD付)

 

さて、この新年が、本田さんの祈りのように、全世界の人々に幸多かれ、

と願うばかりです。

もっとも、「祈り」だけでは、世界は変わらないのだけど。

というところで、雑談は「おしまい」にします。

-------------

PS:原曲解説は、例によって、アンドウトワさんです。

     ↓

ドヴォルザーク1

さて----、どうしょうか、お正月だから、まあ、いいか!

ってわけで、本田さんの「新世界」、毎度おなじみのYou Tubeです。

初めて観られる方、カンゲキするよー、きっと。

DVD所収の映像とは、別のものです)

     ↓

http://jp.youtube.com/watch?v=D8ywTk6pRr0

川井郁子さんの「新世界」もどうぞ。本田さんのファンとして、何かとお世話になっていますので(←謎)。春には、新作CDを出されるご予定。

新世界(初回限定盤)(DVD付) 新世界(初回限定盤)(DVD付)

アーティスト:川井郁子
販売元:ビクターエンタテインメント
発売日:2008/07/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2007年10月28日 (日)

「歎異抄」は、親鸞の思想ではない。(結びにかえて)

(前回からのつづきです)

 

§「絶対他力」=「絶対自力」。

 前回、私は、「自力を完全に捨てる、己のさかしらな分別を捨てる」と、書きましたが、

「絶対他力」の驚くべき点は、捨てたはずの「自力」がみんな、自分の元に還ってくる、つまり、「絶対他力」こそが、「自力」を100%生かす道なのです。

一般に、「他力本願」という言葉は、「他人まかせ」とか、「自分は何もしない」という風な意で使われることが多いようですね。

本来の意味からすれば、それは、明らかに「誤用」なのですが、「親鸞の哲学」の誤解は、今に始まったことでもないので、この件については、「不問」にします。<苦笑>

さて、齋藤孝氏も、「声に出して読みたい日本語 歎異抄」の中のコラムで、

「親鸞の考え方は、やさしさに満ちた教えなのです」

と、述べられています。

親鸞の教えが、「易行道」といわれるように、

それも、確かに一面の真実ではありますが、

「他力本願」は、もっともっと厳しいものを、私たちに突きつけてきているのです。

俳優の三国連太郎氏が製作・監督された「親鸞 白い道」という映画がありましたが、

    ↓

親鸞 白い道 - goo 映画

“漆黒の闇の中、よくよく眼を凝らして見つめていると、かすかに、一本だけ、おぼろげながら白い道が、ずーっと彼方へ伸びているのが見える。

道、といっても、その幅は、僅か30cmすら無いもの、とお考えいたきましょうか、仮に一歩でも誤ると、その道の両側、いずれかの崖より真っ逆さま……“

例えるならば、「念仏道」とは、それに近いものがあるのかもしれません。

「では、訊くが、『阿弥陀仏』のみ名をとなえるだけでよい、と言ったり、

両側が断崖の道を歩いて行くようなもの、と言ったり、一体、どちらが本当か」

と、問われる方もいらっしゃるでしょう。

私の答えは、「どちらも真実です」という他はありません。

いまさらながら、なんとも、難し過ぎるテーマを取り上げたものだ、と今現在、後悔しているのですが<苦笑>

冒頭に記したように、

「『歎異抄』が、親鸞の思想を、正確に伝えているとは、言えない」

(さらに言えば、現真宗教団も、ですが)

このことだけは、(誇張ではなく)私が生きているうちに書いておこうと、この1ケ月余、ずっと思っておりました。

私事で恐縮ですが、----

去る1017日、かけがえのない“戦友”―と、言っても、職場の仲間なのですが―が、遠い遠い処へ旅立たれました。

つい前日まで、談笑していた仲間が、です。

全く、突然のことでした。40代半ば、あまりにも早過ぎます。

ご本人も無念なら、残されたご家族の嘆きはいかばかりのことか。

私も、ショックでした。胸が痛みます。ただただ、悲しいです。

さればとて----

「論語読みの論語知らず」の如き、「ええから加減」の小生が、

こんなどうでもいいブログに書き残したって、そんなに意味のあることでもないのでしょうが、

自身の無知・非力をかえりみず、ここまで来てしまいました。

この文章により、万が一、「親鸞の哲学」に少しでも、ご関心を持たれる方がいらっしゃるようであれば、私の望外の喜びとするところなのですが―

あるいは、各所より、反論等もあるかもしれません。

が、今の心境は、いわば「どうにでもなれ」というような、「自然体」(?)であります。<苦笑>

少なくとも、「歎異抄」を読んだだけで、親鸞の教えについては十分、ということには、しないでいただきたい、と思うのです。

最後に、もう一度、申し上げます。

「歎異抄」は、親鸞の思想ではない。

親鸞の教えは、「今」の人生を生きていく上において、ポジティブに、また、リアルに関わっている―

それこそが、「浄土の真宗」なのです。    (この稿 終わり)

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PS: 「歎異抄」の読めるサイトです。

      ↓

      歎異抄 (原文)  

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2007年10月27日 (土)

「歎異抄」は、親鸞の思想ではない。<その4>

(前回からのつづきです)

 

§「絶対他力」。

「生きている、というより、生かされている」

そんな、フレーズを聞かれたり、読まれたりした方も多くいらっしゃると、思いますが、

「他力」の概念は、そんな身近な言葉の中にもあるように考えます。

さて、「絶対他力」なのですが、

それは、「自力」を完全に捨てる、ということです。つまり、「己のさかしらな分別を捨てる」「物を見るとき、“色眼鏡”をかけて見ない」というようなことでしょうか。

これが、出来そうで出来ないことなのです。なぜなら、人間には、誰でも、多かれ少なかれ、「先入観」を有しますし、それ以上に邪魔なものは、自己に対する「プライド」、また「自尊心」なのです。

SAPPARI WAYA: 「歎異抄」は、親鸞の思想ではない。<その2>

において、

「南無阿弥陀仏」の意は、「『阿弥陀如来』に帰依せよ」、ということです

と、書きました。

「『阿弥陀如来』に帰命致します。」ではないことに、ご注意していただきたい。

親鸞は、

「念仏」=「信心」も、「自分が行おう」としたものではなく、阿弥陀如来が、我々に差し向けたものである、としたのです。

~~~~~~~~~~~

親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。(「歎異抄」第6章より)

~~~~~~~~~~~

「『念仏』は自らのはからいではない。阿弥陀如来のはからいではないか」

だから、「私こと、親鸞には弟子などいないのだ」ということになるのです。

SAPPARI WAYA: 「歎異抄」は、親鸞の思想ではない。<その1>

「念仏」は、「修行」でも、自らの「善行」でもない、

それが、親鸞の「基本的認識」なのですね。

“凡夫には、(すすんで、「善」を積もうなどという)「仏性」など、あろうはずがないのだから”

~~~~~~~~~~~

念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云々。(「歎異抄」第8章より)

~~~~~~~~~~~

ところで、日本でも「裁判員制度」が始まるようなのですが(私は、どうも、この制度には、賛成できないのですが)、

根源的な問いとして、一体、「人が人を裁き得る」ものなのか、ということが、よく言われますね。

親鸞は、

「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」

と、言い切りました。

~~~~~~~~~~~

そのゆえは、如来の御心に善しとおぼしめすほどに、知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の御心に悪しとおぼしめすほどに、知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど(後略)  (「歎異抄」第19章より)

~~~~~~~~~~~

つまり、

“真理の体現者たる、如来様ならともかく、煩悩にまみれたわれわれ凡夫には、善悪を完璧に極めることなど、どだい、無理な話だ”(意訳:筆者)

と、いうことなのです。

言い換えるならば、180ccほどのコップで、太平洋の海水を全部、汲み取ろうとする、そんな“無謀”なことに等しいことかもしれません。

ただ、「浄土の真宗」ならば、それが、可能になるのです。

                            (この稿つづく)

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2007年10月26日 (金)

「歎異抄」は、親鸞の思想ではない。<その3>

(前回からのつづきです)

 

§「現世」にて、「さとりをひらく」ことが、「親鸞の哲学」の核心である。

阿弥陀如来の「本願」を根本に据えた、「他力信仰」は、法然、そして、親鸞に至って、ついに、「宗教」から、

「現世を、いかに生きていくか」

という「哲学」に生まれ変わったのだ、と私は考えています。

ただ、親鸞がこの境地に達したのは、主著「教行信証」を書き上げた後、彼の最晩年の頃と、推察します。

また、親鸞は、自らの信仰については、人々に対し、実に、あけっぴろげであったと思います。

それでもなお、唯円が嘆いたように、親鸞の教えは曲解され、また、当の唯円自身も、親鸞の思想を正しく継承できなかった。

まことに、「人と人とが理解しあう」ということは、難しいものだと、つくづく思います。

さて、以下に、親鸞が門徒宛に書いた、手紙の一節を掲げます。

~~~~~~~~~~~~~~~

 信心を得た人は、必ず浄土に生まれる身となっているので、仏(ぶつ)となることの約束された位にあるといいます。(中略)

 仏になることの約束された位は、次の世に仏となって現れる、「弥勒(みろく)菩薩」と同じ位であります。

   (中央公論社「日本の思想 親鸞」より 現代語訳::石田瑞麿氏 )

~~~~~~~~~~~~~~~

また、親鸞は多くの「和讃」を残しています。

「和讃」とは、五七調で、「浄土の真宗」の教えを、庶民にもわかりやすく伝えるために、作られたものです。

~~~~~~~~~~~~

五十六億七千万

弥勒菩薩は としをへん

まことの信心 うる人は

このたび さとりを ひらくべし

念仏往生の願により

等正覚に いたる人

すなわち弥勒に おなじして

大般涅槃を さとるべし         (「正像末法和讃」より)

~~~~~~~~~~~~

 

§「弥勒菩薩」とは?

釈迦の教えは、「末法の世」(西暦でいえば、1052年頃でしょうか)に入れば、完全にすたれてしまう。(=「末法思想」。)

その暗黒の世界を救うべく、現われるといわれるのが「弥勒菩薩」ですが、その菩薩は、経典によると、567千万年を待たねばなりません。

しかし、親鸞によると、

「信心を得た人は、弥勒菩薩と等しいのである」

と、何度も何度も言っているのです。

さらにまた、

先にご紹介した、「声に出して読みたい日本語 歎異抄」の中で、齋藤孝氏も、このように書いておられます。

~~~~~~~~~~~~

いのちが終わろうとするときに、念仏して往生を願うという「臨終正念」を親鸞は支持しませんでした。(中略)浄土は約束されているのだから、念仏によって、今生の生をポジティブに生きなさいという。(引用筆者)

~~~~~~~~~~~~

齋藤氏の上記のご指摘は、まことに的を得ていると、私は考えます。

繰り返して、申し上げますが

親鸞の思想とは、「死んでから」のことではなく、

「今の人生を生き抜く知恵」を、「絶対他力」に見いだしたものである、といえます。

では、「絶対他力」とはなにか。

だんだんと、ボロが出そうです。が、「さっぱりわやくちゃ」の理念に従い、勢いにまかせて、書いてみます<苦笑>

                         (この稿つづく)

(補:前回、引用した「「唯心鈔文意」も、「中央公論社『日本の思想 親鸞』」所収です)

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声に出して読みたい日本語 音読テキスト3 歎異抄

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2007年10月25日 (木)

「歎異抄」は、親鸞の思想ではない。<その2>

(前回からのつづきです)

 

§「仏像は作るな、寺は建てるな、葬式はするな」

たしか、親鸞の教えには、そんなことがあったと記憶しています。

現在の、浄土真宗とは、全く違いますね。

「仏像は作るな、寺は建てるな」とは、どういうことでしょうか。

浄土真宗における「念仏」(=「南無阿弥陀仏」といいますね)とは、

「『阿弥陀如来』に帰依せよ」

ということなのですが、

では、「阿弥陀仏(=阿弥陀如来)」とは何か、というと、その別名を、

「尽十方無碍光如来」(じんじゅっぽうむげこうにょらい)といいます。

“その放つ光は、さえぎられることなく、十方世界を、ことごとく照らす”という意です。

ですから、このように表現することができます。

阿弥陀仏とは「光」であり、「智恵」であり、また「真理」そのものであります。

更に、具体的に言い換えるならば、阿弥陀仏は、「太陽」である、といえましょう。

親鸞の言葉を借りますと、

~~~~~~~~~~~~

「数知れない世界に、なにものにもさえぎられない智恵の光をお放ちになるから、尽十方無碍光仏と申し上げる。この仏は光ばかりのお姿で、色も形もおありにならない。」

            (「唯心鈔文意」現代語訳:石田瑞麿氏)

~~~~~~~~~~~~

つまり、親鸞は、偶像崇拝を禁じたわけです。異国人の相をした、(仏像は、確かに、日本人の顔ではない)金ピカの仏像を拝むことには、何の意味も無いと考えたのでしょう。

ですから、どうしても、何かを飾りたければ、「名号」を飾れ、との教えであったと覚えています。

「名号」とは、つまり、「文字の掛け軸」ですね。これには、2種類あり、

「六字名号」=「南無阿弥陀仏」と、あとひとつは、

「十字名号」=「帰命尽十方無碍光如来」の、2種であり、

意味は、どちらも同じ、「『阿弥陀如来』に帰依せよ」

ということです。

さて、「葬式はするな」ですが、「歎異抄」の中に、

「親鸞は父母の孝養のために、一遍も念仏したこと、あるまじき候」

という、親鸞の言葉が紹介されています。

また、「私が死んだならば、遺体は、賀茂川に流し、魚に与えなさい」とも、言っていました。

もちろん、死者への悲しみと思いやりを表すことは、人間の感情として、当然のことです。しかし、私たちにとって、最大の課題とは、何でしょうか。

それは、「現世を、いかに生きるか」ということなのです。

このことが、「浄土の真宗」の最大の眼目である、私はそう考えています。

                          (この稿つづく)

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2007年10月24日 (水)

「歎異抄」は、親鸞の思想ではない。<その1>

§「歎異抄」はブーム?

最近、「歎異抄」についての2冊の本を、書店にて見つけました。

1冊は、五木寛之氏の「私訳 歎異抄」(東京書籍刊)、

もう1冊は、齋藤孝氏の「声に出して読みたい日本語 歎異抄」(草思社刊)。

声に出して読みたい日本語 音読テキスト3 歎異抄 声に出して読みたい日本語 音読テキスト3 歎異抄

販売元:草思社
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私訳 歎異抄 私訳 歎異抄

著者:五木 寛之
販売元:東京書籍
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「偶然」でしょうか、「ブーム」なのでしょうか、あるいは、「混迷」と「漠然とした不安」に満ちた今の時代、「歎異抄」がまたまた、注目を集めているのでしょうか。

ただ、「歎異抄」には、「問題点」があるのも、事実なのです。

 

§「歎異抄」とは、どんな書?

とはいえ、「歎異抄」をご存じない方もいらっしゃるでしょうから、簡単に説明します。

(例のごとく、「てんけい」流の荒っぽいものですが)

「歎異抄」の著者は、唯円である、というのが現在の定説です。

彼は、親鸞の、大勢の“弟子”の中のひとりです。

(注:親鸞は、「阿弥陀如来の前では、みな平等である」として、“弟子”という概念を否定し、「同朋」という言葉を使っています。)

親鸞とは、社会科の授業で、覚えておられる方も多いと思いますが、

鎌倉時代に、新しい仏教として、「浄土真宗」を開いた、とされていますね。

で、親鸞の死後、間違った教えが、信者の間にひろまり、

唯円の言を借りれば、

「先師の口伝の真信に、異なるを、嘆き…」(←これが、「歎異抄」という題名の由来です)

「親鸞上人の、真の教えは、こうである」と、書き綴ったものなのです。

 

§「歎異抄」の、問題点とは?

さて、「問題」は唯円のこの本が、

「本当に、親鸞の教えを正確に伝えているか」

ということなのです。

結論をいいます。

私の答えは「No」です。「歎異抄」の著者である唯円もまた、親鸞の教えとは、違ったものになっています。

 

§「歎異抄」の構成。

「歎異抄」は、分量的には、短い書物ですから、ものの30分もあれば、通読できます。

まず、「序文」があり、19章からなる「本文」がつづき、「あとがき」で終わります。

(注:「歎異抄」の分けかたには、2説あり、 先に挙げた、五木寛之氏、齋藤孝氏の著書は、両者とも「18章」説を採用されていますが、私は「19章説」を採ります)

さて、この19章からなる本文ですが、

前半の10章については、唯円が、親鸞が生前、語った言葉を書き写したものとされ、これは、いいでしょう。(本当に一言一句、間違いがないか、ということになると、また別の話なのですが)

後半部分が、唯円の筆による、いわゆる「歎異」の章なのですが、

これが、親鸞の思想を、正確に伝えているとは、到底、言い難い。

「歎異抄」を読まれる方は、この点に、十分、留意していただく必要があります。

そして、この点を、「歎異抄」についての本を出される場合、著者は明記するべきだと思うのです。

私が先に挙げた2冊は、両方とも、この点については、何の記述もありませんでした。

 

 §親鸞の思想とは?

これを書くとなると、勿論、大変でして、やはり、物証、というか、資料類も必要なのでしょうが、震災で残っていません。

また、このたび、「私訳 歎異抄」を上梓された五木寛之氏でさえ、「25年間『歎異抄』を読んできたが、奥が深い」というようなことを、書いておられたと思います。

まして、小生の「頭の中の消しゴム」は巨大化する一方です。<苦笑>

と、まあ、言い訳じみたことは、さておいて、唯円が「歎異抄」にて綴った言葉を借りるならば、

「故親鸞聖人の御物語のおもむき、頭の底に留むる所、いささかこれをしるす」

(注:下線部「歎異抄」原文では、「耳の底」)

とでも、いうべきなのでしょうか。

皆様には、「ヒント」程度のことにしかならないと思うのですが、やってみます。

よく、「葬式仏教」などという言葉を耳にしますが、

(この言葉が、仏教者に対する、最大の侮蔑を含んでいる、ということに、彼らは本当に気付いているのでしょうか)

浄土真宗は、「死んだあと、極楽浄土に行くための宗教である」

とお考えの方が多いのではないでしょうか。

しかし、それは、間違っています。

私が若い頃なら、唯円の書いた9章につき、逐一、論駁を試みたと思いますが、今の私には、もう、そのような気力も、知力もありません。(苦笑)

よって、頭の動く範囲で、筆を進めてみます。

読みづらい点、また、分かりにくい点は、どうか、ご容赦のほどを。 

                            (この稿つづく)

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